地域の学校史


【上富村牛小中学校について】
 本校は、戦後十勝川上流開発の一環で上トムラウシ開拓地に入植した、開拓民からの要望の高まりを受け、昭和28年11月20日、富村牛小学校上富村牛分校として児童数12名をもって発足しました。
 また中学校は昭和31年に富村牛中学校上富村牛分校の設置が認められ、生徒数12名をもって開校、翌年上富村牛中学校として独立しました。
 開校当時は学校用地も原始林伐採跡地内にあり、大径木の木株や寝木などが散在するままであったため、校舎周辺整備や運動場造成、火薬抜根に地域住民の絶え間ない奉仕が続けられました。
 昭和37年には十勝岳噴火の降灰により、住民全員が屈足地域に一時避難する出来事もありましたが、長く地域の中心的役割を担ってきました。
 しかし昭和47年の小学校開校20周年を峠に、離農などの影響もあり在籍児童生徒数が減少、昭和51年に富村牛小中学校に統合し23年の歴史を閉じました。
小学校設置 1953(昭和28)年11月20日  富村牛小学校上富村牛分校として
中学校設置 1956(昭和31)年 4月     富村牛中学校上富村牛分校として
閉校    1976(昭和51)年 3月21日  富村牛小中学校に統合


【下富村牛小学校について】
本校は、昭和37年3月にキナウシ地区に分校設置が認められ、児童数6名をもって開校しました。校舎は中心地にあった貴名牛神社の社殿(19.8平方メートル)を利用していたので、当時「鳥居のある学校」として話題を呼びました。その後昭和39年にトムラウシ17番地の離農者の家屋を改造し分校を移し、昭和44年まで単級で続けられたものの、在籍児童数1名となったため、富村牛小学校へ統合されることになりました。

 なおキナウシ地区は昭和48年に十勝ダム着工水没地点となりました。現在はダムの安全祈願を込めて、ダム湖である東大雪湖の旧俗称「赤岩」の岩頭頂上に社殿を新築され、当時の名残をとどめています。
設置 1962(昭和37)年3月1日   富村牛小学校下富村牛分校として
閉校 1969(昭和44)年4月1日   富村牛小中学校に統合
(『新得町史』、学校沿革史より)